口演童話「サルになった少年」
ぼくは運動神経がすこぶる劣っている。いじめのターゲットに生まれてきたようなもの。学校にもいかず家に引きこもっていた。たまに行っても校長室とか保健室によって帰ってくるだけ。誰にも見られないように登校して、誰にも見つからないように下校する。親は理解があって、それだけでも喜んでいた。
たまに部屋でくすぶっていると、お手伝いを頼まれる。少し離れたところに住んでいる祖父への用事だ。ぼくはそれも嫌だったが、テレビもゲームも飽きて、外の空気でも吸おうかと思ったときとタイミングが合えば手伝いをする。
あるとき用事が済んで帰ろうと空を見上げたら、夕暮れの空に太陽のような柿がぽっかり貼り付いていた。土産に持って帰ろうとしたが、力がなくいっこうに木に上れない。揺すってもびくともしない柿の木。悔しくて助走をつけてキックした。それで熟した柿が落ちてきた。
キックしたためにぼくは、木に跳ね飛ばされて地面に転がっていた。気がついたときには遅く、目の前で柿が無残にも潰れてしまった。それからぼくと柿の木の格闘が毎日続いた。用事もちょくちょく頼まれるようになった。ぼくには目的があったので、もう祖父の家に行くのは嫌でなくなっていた。
キャッチボールをしても顔面で受けて、男前が台無しになってしまう。こんなぼくだから落ちてくる柿をキャッチするのはむっつ無理。だから何とかそばまで行って、柿をもぎ取るのがいちばんいい。でも早くしないと残りの柿もいずれ落ちてしまう。もしくは鳥に横取りされてしまう。
毎日上る練習をしていると、だんだん腕や体幹に力がついてきたのか、または上るコツみたいのものも生まれてきた。残りの柿に次第に近づいていった。だけど喜んだのもつかの間、支えに掴んだ枝が折れて、地面に真っ逆さま。もう死ぬかと思った。たかが柿の実に殺されそうになった。その日は意気消沈して帰った。
実は祖父はぼくと柿の木の格闘を、いつの頃からかみていた。出直しのその日も帰りに木に上っていたとき、「それじゃない。頭の上の枝じゃ」と祖父の声が、下からした。教えてもらった枝はしっかりしていて、やっと待望の柿の実を目の前にした。もう柿は、二個しか残っていなかった。ポケットに入れて慎重におりていった。一個を祖父に渡したら、体が熱くなってきた。
柿はなくなったが、それからも柿の木に上る練習をした。「来年は全部の柿を収穫してやるぞ」という気持ちで頑張った。どんどん木登りがうまくなっていく。走るのも飛ぶのも泳ぐのもだめ。球技は大の苦手のぼくですが、木登りのスポーツがあれば、結構いけるかもしれません。
高校生になったとき、小中の同級生が行かない遠い高校に行き、逃げるように通っていました。ぼくの弱さをまたいじられたくなかったからです。卒業式もいっしょじゃなかったし、ほとんどのみんなはぼくの存在を知らなかったでしょう。透明人間が、どこの高校に入ろうと気にしないものです。
体育の時間がありました。小学3年以来の体育の時間だったような気がします。準備体操をして、砂場に移動しました。砂場と思ったのは鉄棒でした。逆上がりの練習みたいです。鉄棒で逆上がりなんかできたことがありませんでした。先生が見本を見せてくれて、順番に逆上がりです。
見本を見て、何となくできそうな予感になっていました。できなかった者は低い鉄棒で練習をしていました。ぼくは1回で難なくできました。そして授業の最後に先生が、蹴上がりを見せてくれました。先生が「できるもの?」というので、ぼくは手をあげました。できたものはぼくを含めて、クラスに3人しかいませんでした。
体操クラブに行っていたわけでもないのに、運動音痴のぼくは、鉄棒には強かったみたいです。どうもそれは木登りをしていたせいで、鉄棒の感覚が身についていったようです。蹴上がりも先生の見本を見て、少しの説明を聞いただけでそのコツがわかる体になっていました。
高校に入学して半年が過ぎて、クラス対抗の体育祭がありました。ぼくが出場する球技や陸上はありませんでした。競技の合間合間の応援団しかありませんでした。鉄棒があったらよかったのですが、そんなものは体育祭にはありませんでした。
サッカーの競技が始まりました。応援団の時間ではなかったので、鉄棒のところに行き、飛びつき足抜きをして、背上がりで鉄棒の上にちょこんと座りました。見晴らしのいいところから様子を伺っていました。その時、誰かの声が聞こえてきました。「あんなところで、サルが高みの見物だ」と。以来ぼくは「サル」と呼ばれるようになりました。
無神論者ではなかったのですが、何だかサルトルと呼ばれているみたいで、哲学者気取りになりました。何がいいとか悪いとかその時にはわからない。結果は後からついてきて、その因果を明らかにしてくれる。
参考:サルになった少年
口演童話
ぼくは運動神経がすこぶる劣っている。いじめのターゲットに生まれてきたようなもの。学校にもいかず家に引きこもっていた。たまに行っても校長室とか保健室によって帰ってくるだけ。誰にも見られないように登校して、誰にも見つからないように下校する。親は理解があって、それだけでも喜んでいた。
たまに部屋でくすぶっていると、お手伝いを頼まれる。少し離れたところに住んでいる祖父への用事だ。ぼくはそれも嫌だったが、テレビもゲームも飽きて、外の空気でも吸おうかと思ったときとタイミングが合えば手伝いをする。
あるとき用事が済んで帰ろうと空を見上げたら、夕暮れの空に太陽のような柿がぽっかり貼り付いていた。土産に持って帰ろうとしたが、力がなくいっこうに木に上れない。揺すってもびくともしない柿の木。悔しくて助走をつけてキックした。それで熟した柿が落ちてきた。
キックしたためにぼくは、木に跳ね飛ばされて地面に転がっていた。気がついたときには遅く、目の前で柿が無残にも潰れてしまった。それからぼくと柿の木の格闘が毎日続いた。用事もちょくちょく頼まれるようになった。ぼくには目的があったので、もう祖父の家に行くのは嫌でなくなっていた。
キャッチボールをしても顔面で受けて、男前が台無しになってしまう。こんなぼくだから落ちてくる柿をキャッチするのはむっつ無理。だから何とかそばまで行って、柿をもぎ取るのがいちばんいい。でも早くしないと残りの柿もいずれ落ちてしまう。もしくは鳥に横取りされてしまう。
毎日上る練習をしていると、だんだん腕や体幹に力がついてきたのか、または上るコツみたいのものも生まれてきた。残りの柿に次第に近づいていった。だけど喜んだのもつかの間、支えに掴んだ枝が折れて、地面に真っ逆さま。もう死ぬかと思った。たかが柿の実に殺されそうになった。その日は意気消沈して帰った。
実は祖父はぼくと柿の木の格闘を、いつの頃からかみていた。出直しのその日も帰りに木に上っていたとき、「それじゃない。頭の上の枝じゃ」と祖父の声が、下からした。教えてもらった枝はしっかりしていて、やっと待望の柿の実を目の前にした。もう柿は、二個しか残っていなかった。ポケットに入れて慎重におりていった。一個を祖父に渡したら、体が熱くなってきた。
柿はなくなったが、それからも柿の木に上る練習をした。「来年は全部の柿を収穫してやるぞ」という気持ちで頑張った。どんどん木登りがうまくなっていく。走るのも飛ぶのも泳ぐのもだめ。球技は大の苦手のぼくですが、木登りのスポーツがあれば、結構いけるかもしれません。
高校生になったとき、小中の同級生が行かない遠い高校に行き、逃げるように通っていました。ぼくの弱さをまたいじられたくなかったからです。卒業式もいっしょじゃなかったし、ほとんどのみんなはぼくの存在を知らなかったでしょう。透明人間が、どこの高校に入ろうと気にしないものです。
体育の時間がありました。小学3年以来の体育の時間だったような気がします。準備体操をして、砂場に移動しました。砂場と思ったのは鉄棒でした。逆上がりの練習みたいです。鉄棒で逆上がりなんかできたことがありませんでした。先生が見本を見せてくれて、順番に逆上がりです。
見本を見て、何となくできそうな予感になっていました。できなかった者は低い鉄棒で練習をしていました。ぼくは1回で難なくできました。そして授業の最後に先生が、蹴上がりを見せてくれました。先生が「できるもの?」というので、ぼくは手をあげました。できたものはぼくを含めて、クラスに3人しかいませんでした。
体操クラブに行っていたわけでもないのに、運動音痴のぼくは、鉄棒には強かったみたいです。どうもそれは木登りをしていたせいで、鉄棒の感覚が身についていったようです。蹴上がりも先生の見本を見て、少しの説明を聞いただけでそのコツがわかる体になっていました。
高校に入学して半年が過ぎて、クラス対抗の体育祭がありました。ぼくが出場する球技や陸上はありませんでした。競技の合間合間の応援団しかありませんでした。鉄棒があったらよかったのですが、そんなものは体育祭にはありませんでした。
サッカーの競技が始まりました。応援団の時間ではなかったので、鉄棒のところに行き、飛びつき足抜きをして、背上がりで鉄棒の上にちょこんと座りました。見晴らしのいいところから様子を伺っていました。その時、誰かの声が聞こえてきました。「あんなところで、サルが高みの見物だ」と。以来ぼくは「サル」と呼ばれるようになりました。
無神論者ではなかったのですが、何だかサルトルと呼ばれているみたいで、哲学者気取りになりました。何がいいとか悪いとかその時にはわからない。結果は後からついてきて、その因果を明らかにしてくれる。
参考:サルになった少年
口演童話