口演童話「絵本になったエド」
ぼくの名前は、エドです。ぼくの居場所は、レストランのテーブルの下です。いつからこのレストランにいるのかは、ぼくは知りません。多分、どこか別のところで生まれて、1週間か2週間して、ここに引き取られてきたのだと思います。
ある日のこと、秋田犬をつれてきたお客さんが、入り口でレストランのチーフと言い合いをしていました。
「犬は、中に入れないで、外の柵につないでおいてください」
「じゃあ、あの犬は何だ?」
そのお客さんは、ぼくのほうを指差しました。
「あれはうちの店で飼っているペットでして」
「犬にかわりはないだろう?」
「エドは、店のマスコットでして」
お客さんとチーフの押し問答が続きました。
秋田犬は、歯をむき出し、低い声でうなりました。ぼくは、争うのは嫌いでしたから、その場から逃げるのが、一番いいような気がしました。
秋田犬の眉間には傷があり、相当けんか慣れしているようでした。ぼくには勝ち目がなさそうに見えました。だいいちぼくより体が大きいのですから、上に乗っかられたら尻尾を巻くしかありません。ぼくは逃げようと、思いっきり走りました。首輪の紐がテーブルの脚に結ばれていたのを忘れていました。テーブルを思いっきりひっくり返してしまい、テーブルの上のメニューやら爪楊枝やらが飛び散りました。もうここには置いてもらえないと思ったくらいでした。
案の定、そのとき別のテーブルで食事をしていたお客さんに引き取られることになりました。やはり、レストランのお店の中で飼っていることは、まずかったようです。今はまだ3ヶ月のぼくですが、1年も経てば立派なシェパードになりますから。
「エドを、よろしく頼みます」
チーフは、静かに頭を下げました。
次のご主人は、塾の経営者でした。塾は塾でも、受験勉強などの塾ではありません。『おはなし塾』と言って、お話しの仕方を教えている塾でした。
ぼくは、お話を聞くのが大好きです。はじめ、人間の言葉がよく分からなかったのですが、ご主人の言葉の響きが気持ちよかったのもあって、どんどんお話を聞くことになりました。塾生たちは、大きくなったぼくを恐がることはありませんでした。ぼくは、おとなしいおはなしの好きな犬でしたから。
おはなしを聞いていると、世界がいくつもあるような気がしました。絵本の中に入っていきたいくらいでした。
塾が開講されているときは、ぼくは必ずおはなしの部屋にいました。それ以外は、庭の角にあるぼくの家にいました。
塀の向こうの道路を見ているのはつまらないです。車が行きかうだけで、排気ガスの匂いがしてきます。歩道から中をうかがう人がいたりします。すぐ側にぼくがいると知らないで、目があうとびっくりして、そそくさと歩いて行く人もいます。
ぼくの大好物は、お肉です。でも、ご主人にもらっても肉は、全部すぐには食べません。半分残して、半分は庭に埋めるのです。後からじっくり味わうために。
ぼくの嫌いなものは、雨です。雨だと散歩に連れていってもらえないからです。それに、体も思いっきり動かせないので、なまってしまって体が弱くなっていくような気がします。
ところで、シェパードといっても、ぼくの毛は黒くはありません。ぼくは、コリーとシェパードの間に生まれたからです。茶色や白が混じっています。ちょっとおしゃれなシェパードに見られるのが、自慢と言えば自慢です。
ぼくは、キャッチボールが好きです。ご主人とキャッチボールをしていて、キャッチして返しに行くと、頭や胸をなぜてもらえるのです。気持ちよくって、落ち着くのです。ジャンプしてキャッチしたときには、ビスケットがもらえたりします。
投げた棒や石のさがしっこもします。ご主人が草むらに投げた棒を、一目散に走って探します。小さな石でも平気です。ちゃんと匂いで探すことができます。
「いいぞ、エド。すごいぞ、エド」
ほめてもらうと、上機嫌になって、すぐ尻尾を振ってしまいます。
ご主人も幸せそうな顔をするので、キャッチボールをすることが、ぼくの最大の仕事に思えました。ボールをキャッチしたり拾ったり、小石を探すことが、ぼくがここにいることの証でした。
ぼくは水が嫌いでしたが、夏は違います。ご主人に池や川に連れて行ってもらって、水浴びをしたことがありました。庭にいて、ホースで水をかけてもらうこともあります。シャワーの中から、虹を見ることもありました。今までぼくが見た中で、それが一番美しいものでした。世界中を旅すれば、もっと美しいものに出会うかもしれません。でも、それ以上に美しいものはないようにも思います。
ある夏の朝、何だか首の周りが涼しく感じました。何かの拍子に首輪が取れたようです。
「すぐにもどればいいんだから」
と、自分に言い聞かせて、垣根の隙間をくぐって、道に飛び降りました。
「右に行こうか、左にしようか」
ぼくは、太陽があるほうとは反対側に、歩きはじめました。
思いのほか、足が軽くて、スキップして走りはじめました。
しばらく行くと、中学生が乗った自転車が後ろから来るのがわかりました。その場にしばらくたたずんでいると、中学生が二人、ぼくのほうをチラッと見て、過ぎていきました。
「ついていけば、何かあるかもしれない」
ぼくは、自転車の後を追いました。そうすると池につきました。
中学生が、池に石を投げました。石を拾ってくれば、またほめてもらえると思い、池に飛び込みました。石が落ちた周りを見ても、どこにも石は見つかりません。
「そうか、池の底に落ちていったんだ」
ぼくはそう思うと、水の中にもぐりました。まるで魚になったように、水中を泳いで探しました。底の泥の中に沈んで、見えなくなったことを知りませんでした。
カメに出会いました。
「ぼくの探している石を知りませんか?」
カメは答えてくれませんでした。口からぷくりとあぶくを一つ出しただけでした。
その時ぼくは、変なことを考えていました。このカメの背中に乗せてもらったら、竜宮城に連れて行ってもらえるんじゃないかと。浦島太郎物語の絵本を読み聞かせをしてもらったことが、頭のどこかすみっこにあったのかもしれない。
ぼくは息が苦しくなって、水面に顔を出してしまいました。もうあたりは夕暮れで、石を投げた中学生たちはどこにもいませんでした。ぼくは池から出て身ぶるいしました。その時、池にうつる自分の顔を見ました。
自分が若いと思って、勢いよく池に飛び込みましたが、そこにいるぬれねずみのぼくは、年老いていました。身ぶるいしたぼくは、まだ相当ぬれていました。しぶきにならず、まだ水は体からはなれずにいました。ひょっとしてなかなか顔を出さないから、ぼくが溺れて死んだと思って、中学生はどこかへ行ってしまったのかもしれない。こんな老犬には飽きたのだろう。
なんだか急に力が抜けて、一気に年をとったようだ。そういえば思い出したことがある。いつもなら飛び越えた小川を、ご主人に抱きかかえられて渡ったことを。もう記憶もとぎれとぎれになっていた。家に帰れるだろうかと急に心配になってきた。
とぼとぼとなんとか記憶を頼りに、家に向かって歩いて行った。不意に大きなものがこちらにやってくる。
「ご主人が心配で迎えに来てくれたんだ」
それはご主人ではなく、車だった。そうわかったときには避けきれず、むしろ車に向かっていていたのではね飛ばされてしまっていた。ぼくの体は、自分が思うほどもなく軽くなっていた。この町の最初の車と犬の交通事故だった。
今でもぼくは、ご主人の絵本の読み聞かせを聞いている。今日は珍しく紙芝居をやっていた。浦島太郎物語のお話だった。同じ話でも絵本と紙芝居では違っていた。聞いたり見たりした経験は、そんじょそこらの人と違う。塾生の中では、ぼくはベテランの方だ。いつも教室の本棚にある写真の中から見ている。
ご主人は、ぼくのことを絵本にするらしい。きっと素晴らしい絵本にしてくれると信じている。
口演童話
参考:口演童話「絵本になったエド」
ぼくの名前は、エドです。ぼくの居場所は、レストランのテーブルの下です。いつからこのレストランにいるのかは、ぼくは知りません。多分、どこか別のところで生まれて、1週間か2週間して、ここに引き取られてきたのだと思います。
ある日のこと、秋田犬をつれてきたお客さんが、入り口でレストランのチーフと言い合いをしていました。
「犬は、中に入れないで、外の柵につないでおいてください」
「じゃあ、あの犬は何だ?」
そのお客さんは、ぼくのほうを指差しました。
「あれはうちの店で飼っているペットでして」
「犬にかわりはないだろう?」
「エドは、店のマスコットでして」
お客さんとチーフの押し問答が続きました。
秋田犬は、歯をむき出し、低い声でうなりました。ぼくは、争うのは嫌いでしたから、その場から逃げるのが、一番いいような気がしました。
秋田犬の眉間には傷があり、相当けんか慣れしているようでした。ぼくには勝ち目がなさそうに見えました。だいいちぼくより体が大きいのですから、上に乗っかられたら尻尾を巻くしかありません。ぼくは逃げようと、思いっきり走りました。首輪の紐がテーブルの脚に結ばれていたのを忘れていました。テーブルを思いっきりひっくり返してしまい、テーブルの上のメニューやら爪楊枝やらが飛び散りました。もうここには置いてもらえないと思ったくらいでした。
案の定、そのとき別のテーブルで食事をしていたお客さんに引き取られることになりました。やはり、レストランのお店の中で飼っていることは、まずかったようです。今はまだ3ヶ月のぼくですが、1年も経てば立派なシェパードになりますから。
「エドを、よろしく頼みます」
チーフは、静かに頭を下げました。
次のご主人は、塾の経営者でした。塾は塾でも、受験勉強などの塾ではありません。『おはなし塾』と言って、お話しの仕方を教えている塾でした。
ぼくは、お話を聞くのが大好きです。はじめ、人間の言葉がよく分からなかったのですが、ご主人の言葉の響きが気持ちよかったのもあって、どんどんお話を聞くことになりました。塾生たちは、大きくなったぼくを恐がることはありませんでした。ぼくは、おとなしいおはなしの好きな犬でしたから。
おはなしを聞いていると、世界がいくつもあるような気がしました。絵本の中に入っていきたいくらいでした。
塾が開講されているときは、ぼくは必ずおはなしの部屋にいました。それ以外は、庭の角にあるぼくの家にいました。
塀の向こうの道路を見ているのはつまらないです。車が行きかうだけで、排気ガスの匂いがしてきます。歩道から中をうかがう人がいたりします。すぐ側にぼくがいると知らないで、目があうとびっくりして、そそくさと歩いて行く人もいます。
ぼくの大好物は、お肉です。でも、ご主人にもらっても肉は、全部すぐには食べません。半分残して、半分は庭に埋めるのです。後からじっくり味わうために。
ぼくの嫌いなものは、雨です。雨だと散歩に連れていってもらえないからです。それに、体も思いっきり動かせないので、なまってしまって体が弱くなっていくような気がします。
ところで、シェパードといっても、ぼくの毛は黒くはありません。ぼくは、コリーとシェパードの間に生まれたからです。茶色や白が混じっています。ちょっとおしゃれなシェパードに見られるのが、自慢と言えば自慢です。
ぼくは、キャッチボールが好きです。ご主人とキャッチボールをしていて、キャッチして返しに行くと、頭や胸をなぜてもらえるのです。気持ちよくって、落ち着くのです。ジャンプしてキャッチしたときには、ビスケットがもらえたりします。
投げた棒や石のさがしっこもします。ご主人が草むらに投げた棒を、一目散に走って探します。小さな石でも平気です。ちゃんと匂いで探すことができます。
「いいぞ、エド。すごいぞ、エド」
ほめてもらうと、上機嫌になって、すぐ尻尾を振ってしまいます。
ご主人も幸せそうな顔をするので、キャッチボールをすることが、ぼくの最大の仕事に思えました。ボールをキャッチしたり拾ったり、小石を探すことが、ぼくがここにいることの証でした。
ぼくは水が嫌いでしたが、夏は違います。ご主人に池や川に連れて行ってもらって、水浴びをしたことがありました。庭にいて、ホースで水をかけてもらうこともあります。シャワーの中から、虹を見ることもありました。今までぼくが見た中で、それが一番美しいものでした。世界中を旅すれば、もっと美しいものに出会うかもしれません。でも、それ以上に美しいものはないようにも思います。
ある夏の朝、何だか首の周りが涼しく感じました。何かの拍子に首輪が取れたようです。
「すぐにもどればいいんだから」
と、自分に言い聞かせて、垣根の隙間をくぐって、道に飛び降りました。
「右に行こうか、左にしようか」
ぼくは、太陽があるほうとは反対側に、歩きはじめました。
思いのほか、足が軽くて、スキップして走りはじめました。
しばらく行くと、中学生が乗った自転車が後ろから来るのがわかりました。その場にしばらくたたずんでいると、中学生が二人、ぼくのほうをチラッと見て、過ぎていきました。
「ついていけば、何かあるかもしれない」
ぼくは、自転車の後を追いました。そうすると池につきました。
中学生が、池に石を投げました。石を拾ってくれば、またほめてもらえると思い、池に飛び込みました。石が落ちた周りを見ても、どこにも石は見つかりません。
「そうか、池の底に落ちていったんだ」
ぼくはそう思うと、水の中にもぐりました。まるで魚になったように、水中を泳いで探しました。底の泥の中に沈んで、見えなくなったことを知りませんでした。
カメに出会いました。
「ぼくの探している石を知りませんか?」
カメは答えてくれませんでした。口からぷくりとあぶくを一つ出しただけでした。
その時ぼくは、変なことを考えていました。このカメの背中に乗せてもらったら、竜宮城に連れて行ってもらえるんじゃないかと。浦島太郎物語の絵本を読み聞かせをしてもらったことが、頭のどこかすみっこにあったのかもしれない。
ぼくは息が苦しくなって、水面に顔を出してしまいました。もうあたりは夕暮れで、石を投げた中学生たちはどこにもいませんでした。ぼくは池から出て身ぶるいしました。その時、池にうつる自分の顔を見ました。
自分が若いと思って、勢いよく池に飛び込みましたが、そこにいるぬれねずみのぼくは、年老いていました。身ぶるいしたぼくは、まだ相当ぬれていました。しぶきにならず、まだ水は体からはなれずにいました。ひょっとしてなかなか顔を出さないから、ぼくが溺れて死んだと思って、中学生はどこかへ行ってしまったのかもしれない。こんな老犬には飽きたのだろう。
なんだか急に力が抜けて、一気に年をとったようだ。そういえば思い出したことがある。いつもなら飛び越えた小川を、ご主人に抱きかかえられて渡ったことを。もう記憶もとぎれとぎれになっていた。家に帰れるだろうかと急に心配になってきた。
とぼとぼとなんとか記憶を頼りに、家に向かって歩いて行った。不意に大きなものがこちらにやってくる。
「ご主人が心配で迎えに来てくれたんだ」
それはご主人ではなく、車だった。そうわかったときには避けきれず、むしろ車に向かっていていたのではね飛ばされてしまっていた。ぼくの体は、自分が思うほどもなく軽くなっていた。この町の最初の車と犬の交通事故だった。
今でもぼくは、ご主人の絵本の読み聞かせを聞いている。今日は珍しく紙芝居をやっていた。浦島太郎物語のお話だった。同じ話でも絵本と紙芝居では違っていた。聞いたり見たりした経験は、そんじょそこらの人と違う。塾生の中では、ぼくはベテランの方だ。いつも教室の本棚にある写真の中から見ている。
ご主人は、ぼくのことを絵本にするらしい。きっと素晴らしい絵本にしてくれると信じている。
口演童話
参考:口演童話「絵本になったエド」